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いがいが日記


2026-02-03 [長年日記]

_ AI調査読み物と伊勢崎史

ここ3ヶ月程、GeminiのDeepReseach機能で自分の興味のあることを調べてもらったレポートを読み物としてたのしく読んでいる。 日本の輸入品や輸出品のランキング、日本の産業構造と製品、コーヒー生産国と消費国のランキング、北前船貿易、などなど、詳しく知りたかったがデータや書籍を調べて読むのも面倒という問いに簡潔に、かつ読みやすく資料を書いてくれて本当にたのしい。ソースとして省庁データをつかってくれるので、最新に近い量や金額の話が読めるのがとても良い。

これをつかって長年の謎だった東武伊勢崎線がなぜ伊勢崎まで延伸してきたのかを調べてみた。住んでいるときは気にしなかったが、外に出ると伊勢崎のような小さな街へ私鉄が終点の駅として延びてきているのが不思議で、どうしてだろうと思っていた。数年前にブラタモリを見て、東毛地域は養蚕業が盛んでそれは輸出されて外貨を獲得していたと知り、そうか絹の貨物を運ぶためかと納得していたのだが、調べてみたらより詳しいことがいろいろわかってたのしい気分になった。

まず、鉄道が走る前はどうやって東京へ運んだかは、利根川や広瀬川など川をつかって運んでいた。これがコストをかけずに絹織物を運べる産業の起動に役立ったのだろう。しかし川の水が減ると運べないなど問題があり、明示20年頃、現在のJR両毛線が走ると鉄道で東京まで運べるようになった。しかし両毛線+高崎線は遠回りして東京へ運ぶので、直線距離で結ぶ東武伊勢崎線が明治末期に出てくる。コストメリットと、加えて1時間程の時間短縮になったのが良かったらしい。東京での流行を織り子に伝えて織ってもらい、また東京で売る、という時間を重要視する戦略をとっていたようで驚いた。つまり、東武伊勢崎線は最初から貨物を運ぶために伊勢崎まで延びてきたわけで、人を運ぶのが主目的ではなかったようだ。人を運ぶために、前橋などへつなぐ計画もあったそうだが、実現しなかったのは採算が取れない見込みだったのだろう。

ここまででかなり納得したのだが、そもそもなぜ伊勢崎で養蚕が盛んだったかのが次の疑問になった。

まず、空っ風が蚕の飼育に良い影響を与えていたそうで、乾燥した風が蚕の病気を防いだらしい。また、蚕の飼育方法に革新的な方法を(現)伊勢崎の田島弥平(最近旧邸が富岡製糸場とともに世界遺産に認定された)が発明したそうだ。この飼育方法に最適な住居をつくって蚕を飼育したらしい。また、この周辺は川が氾濫しやすい地域だったそうで、氾濫に対して弱い稲作ではなく、氾濫しても対応できる桑の栽培が盛んだった、これらがそもそも伊勢崎周辺で養蚕が盛になっていた理由のようだ。

また、海外へ輸出したのは織ったあとの絹織物だと思っていたが、それだけではなく蚕のたまごを輸出していたそうだ。これは、ヨーロッパで蚕にかかる病気が流行ったことで全滅してしまい、その病気がこなかった日本から蚕のたまごを輸入することになったそうで、これが莫大な富を生み出したらしい。そして庶民向きの絹織物である銘仙を屑繭からつくっていたそうで、これが東京で売れた、それを運ぶための東武伊勢崎線だったのだろう。

養蚕業は戦後に廃れて、20年後くらいに私が伊勢崎で生まれる。この頃は、学校の授業で養蚕が過去に盛んだったことを学ぶこと、近所に桑畑が広がっていて養蚕の名残りを感じること、くらいしか養蚕のことは知らず、そして東武伊勢崎線は東京まで安く行けて便利だなくらいしか思わなかった。それから数十年かけて東武伊勢崎線が伊勢崎まできたのは明治末期というすごい昔であり、その背景を少しずつ知っていくことになった。養蚕業によって得られた巨大な富の遺物としての東武伊勢崎線の恩恵を受けていて、当初の目的であった貨物がなくなったあとも存続させていてくれた過去の人たちに感謝する気持ちになった。


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